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悪魔払いのページ

大野湊神社の夏季例大祭に奉納され3日間、金石の町を演舞して廻ります。

金石に伝わる悪魔払(あくまばらい)について

悪魔払そのものの始まりには「伝教大師が比叡山に延暦寺を建立する時に山野を切り開き、そこに住む
動物達(魑魅魍魎)を追い払った中で猿が根強く抵抗したので猿を祀った猿田彦(佐那武大明神の別称)
の前で踊ったのが始まりとする説」
「山伏の行・修験道から出ているという説」の二説がありますが、後者の方が適切のように思われます。
悪魔払の踊り方や一本歯の高下駄法螺貝太鼓呪文など山伏を連想させるものばかりです。

      
踊りは赤の天狗黒の般若茶の山男(翁)の面をつけた踊り手が(まさかり)の武器を携えて
まず空に九つの区画をひき「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九字の陰形を切って右手人差し指を
こめかみにあてて始まります。この動作は山伏の呪文で、自分の姿を敵にみつからぬよう消す仕種であり
足を地にすって歩くことも忍びの術の如く、敵にさとられぬよう足音を消して進む動作だといわれます。

    

    
「弥彦婆」(やひこばば)とも呼ばれる悪魔払は、江戸時代に金沢の城下町で金剛院・万宝院・乾貞寺など
当山派寺院の山伏達が土用から秋口にかけて行っていたものが「金沢弥彦送り」「やしこ山伏」として
浅野本町・堀川界隈で祭礼の余興・民俗芸能として伝承され、明治時代に入り金石町の俣田市太郎氏
が習いに行ったのが金石(旧大野庄全域)の悪魔払の始まりであります。




金石では昔から金石青年団(〜昭和47年)の若い人を中心にして伝えられ百年以上たちました。
その後悪魔払保存会(昭和49年〜昭和56年)おもに金石青年連盟(昭和52年〜昭和63年)の運営を経て
現在は我々
金石町壮年会金石町青年団(平成2年〜)が伝統を引き継いでおります。
祖先の残してくれた数々の芸能や唄などが少なくなっている今、これらの無形の財産を残していくことも
若い者のつとめであると思い、これからも絶やすことの無いように継承していく所存であります。


悪魔払い旗の変遷
      
百万石祭りにで使用       保存会時代に使用        2005年まで使用      2006年から使用

悪魔払いスケジュール(いつ観ることが出来るか?)

昭和の悪魔払い(悪魔払保存会の時代)


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KANAIWA POWER (金石町壮年会 平成28年度役員)